カテゴリー「熊取探訪~その歴史と文化~」の16件の記事

2013年8月18日 (日)

「雨山」から「城の山」へ

2013年8月4日熊取町の雨山登山口から上り、尾根伝いに泉佐野市の「城(じょう)の山」の頂上まで行った。
雨山(312m)の雨山城と城の山(287m)の土丸城は南北朝時代から戦国時代まで続いた泉南地方最大級の山城(跡)だ。
「雨山城」とも「土丸城」とも呼ばれ、別の城ではなく一体の城だ。
今年6月に国の文化審議会で、重要文化的景観「日根荘大木の農村景観」の選定と国指定史跡日根荘遺跡の16地点目の追加指定地「土丸・雨山城跡」について文部科学大臣に答申が出された。
         城の山」山頂にある祠↓
2013080456_
 日根野の平野部からの眺めは美しい
  
(2012.10.30撮影)
 

Pa30006511

続きを読む "「雨山」から「城の山」へ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月31日 (木)

土丸・雨山城跡 ~雨山にもう一つ神社があった

大阪府と和歌山県の境、熊取町成合に雨山(312m)と泉佐野市土丸の城の山(土丸山、287m)の連山に、中世には土丸・雨山城があった。
紀州と和泉を結ぶ粉河街道、河内へ抜ける水間街道、大木道・御幸道など主要街道の結節部に位置しており、和泉を代表する戦国期山城だ。

昨年(2012年11月)泉佐野市と熊取町で「土丸・雨山城跡 よみがえる和泉の中世山城」連続講演会と調査成果の展示会が行われ参加した。
これを機会に土丸・雨山城跡を探ってみたい。

雨山の山頂には雨山神社跡があるが、もう一つ神社があることを展示会で知った。
2013年1月19日もう一つの神社を探しに雨山に登った。

「土丸・雨山城が平野部に対して非常にシンボリックな山に立地していた」ことがわかる。↓Pa3000651
 (2012.10.30撮影)↑日根野の平野部からの眺めは美しい
 

続きを読む "土丸・雨山城跡 ~雨山にもう一つ神社があった"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年1月 3日 (木)

初詣~熊取町の大森神社

新年明けましておめでとうございます

「白秋期」は、2006年11月にスタートして七年目に入っています。
活動の記録として週1~2回発信を続けていくつもりです。
今年も是非覗いて下さい。
                       2013年元旦

初詣は一日午前10時、自宅から歩いて十数分の大森神社に行った。
明治41年9月熊取村の57社が大森神社に合祀合併された。
境内 舞台と奥に拝殿

P1010020_2

続きを読む "初詣~熊取町の大森神社"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年4月26日 (火)

芝桜開花

2011年4月25日熊取町奥山雨山自然公園駐車場法面に写真のような4色の芝桜が開花し、文字「くまとり」とマスコット・キャラクター「ジャンプ君」、町章が浮き上っていた。
昨年植え、今年初めて開花した。

P4250042

続きを読む "芝桜開花"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月23日 (水)

成合寺遺跡と成合寺

2011年2月16日熊取町成合(なりあい)地区の成合寺(じょうごうじ)跡と教えてもらった場所に行って見た。
元禄、文化など江戸時代の墓石が10基余り並んでいた。「當寺 金龍鱗大和尚 三世」の字がめる。この辺りは阪和自動車道工事の際に発掘され、14世紀後半(室町時代)の「成合寺遺跡」とされている所だろう。
墓石が並ぶ一角。コンクリートの塀の向こうは阪和自動車道。
P2160053

「地図成合寺遺跡」をダウンロード

続きを読む "成合寺遺跡と成合寺"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年10月14日 (水)

熊取探訪11~だんじり祭り

地元の「熊取だんじり祭り」は10月10日は大森神社宮入り、11日は熊取駅前通りパレードだった。この町にもこんなに沢山の若者がいたのかと思うほど、多くの若者がだんじりを引いていた。
野田地区のだんじり:大工方が踊る:黒装束に白い帽子と上着の仮装はなんだ?
Pa110014

続きを読む "熊取探訪11~だんじり祭り"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月22日 (木)

熊取探訪10~雨山城址から城主橋本正高の墓へ

中世(南北朝時代)、和泉地方は南朝勢力の拠点の一つとして戦乱に巻き込まれた。
熊取町の南端に雨山(312m)がある。
山頂に築かれた雨山城と尾根伝いの土丸(槌丸)城は、和泉と紀州を結ぶ粉河街道を押さえる要城で、南朝軍と北朝軍が争奪を繰り広げたという。

和田地区の来迎寺をスタートし、西方寺~雨山城址~土丸城址~春日神社~南朝方城主橋本正高の墓~雨山城碑と歩いた。(2008年5月16日)

続きを読む "熊取探訪10~雨山城址から城主橋本正高の墓へ"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月30日 (日)

熊取探訪9~阪上水神と四国八十八ヵ所霊場

熊取にも「四国八十八ヵ所霊場」があった。熊取町を東西に貫く国道170号(大阪外環状線)紺屋北の交差点を北に少し上った所に石仏がずらりと並んだ紺屋山「四国八十八ヵ所霊場」がある。
「四国88ヶ所霊場地図.xls」をダウンロード
桜ヶ丘へ続く土手に大師祠と八十八ヵ所の石仏が祀られていたというが、桜ヶ丘が昭和40年代に住宅地として造成されたため現在は一箇所に集められている。P2140037 P2140032
八十八ヵ所霊場 浪曲師日吉川秋水氏寄進の極楽橋   
霊場の中ほどにある





八十八ヵ所霊場を祀ったのは、
阪上(さかうえ)水神の創始者、紺屋(こんやーちめい)の阪上亀吉氏である。亀吉氏は元来体が弱く、自宅の井戸の水をつけて治癒したため、井戸に水神を祀るようになった。以来石仏を設置し祀った。
霊場内の亀吉翁の石像P2140033   阪上水神の道標             P2140022








紺屋の丸栄タオル前の四辻に
折れた石柱がある。
かろうじて「(阪上)水神是・・・・」「(八)十八ヵ所 東・・・」とだけ読める。

水神の祀られた井戸の水を患部につけると病気が治るとか、亀吉氏に触ってもらうと体が楽になるというので、昭和の中頃には多くの信者がつめかけ、行列が、阪上家から八十八ヵ所までの道に連なるほどであったという。(「熊取の民俗」参照)

道標やお地蔵さんが、この道標のように、道路工事の時に壊されたり、どこかに行ってしまうとのことだ。先達が築いてきた歴史や文化の証
をもっと大事にしたいものだと思う。 (写真はクリックで拡大します)

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年2月13日 (水)

熊取探訪8~マタリンさん

熊取町和田地区の東粉河街道沿いに国の重要文化財に指定されている来迎寺(本堂)がある。(2007.11の熊取探訪7で紹介http://yama07.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/7_575c.html
その来迎寺を20m程東に行くと、木に囲まれたしたこんもりとした小さな丘がある。狭い石の階段を30程上ると小さな祠がある。散歩で通る時、時々上ってみて「一体これは何なんだろう?」とずっと思っていた。「matarinsan.地図pdf」をダウンロード
最近これが「マタリンさん」ということを知った。

木に囲まれた丘                        32段の階段P2130014           P2130007








マタリンさん
Pb060018














奥の祠にマタリンさんが安置されている
P2130013 一つの石灯籠の横に、小さな祠とその前に籠もり堂がある。金属の棒で支えられた古い祠だ。いつもきれいに掃き清められている。




マタリンさんとはなんだ?
 「摩多利神(マタリシン)」と呼ばれる神のことであり、明治の初め頃泉州地方に疫病防除の神として勧請されたものと言われている。マタリンさんはお隣の泉佐野市に二ヶ所、貝塚市に二ヶ所そしてここ熊取の和田に一ヶ所と泉州の山間部と山裾にのみ分布している。
和田において疫病が流行したことからに明治26年当時の区長がもたらしたもの。しかしどこからマタリンさんが勧請されたのかはつまびらかではない。

戦前まで、和田で雨が降り田に水が潤ったらアマヨロコビ(雨喜び)といってマタリンさんの前の籠もり堂に座員が集まりお籠もりをしながら会食をしたと言う。

また生まれた子どもの100日目にマタリンさんに参る。そこできれいな石を六個拾ってきて、家で洗い、お腹に虫がわかないようにと赤ん坊に舐めさせたという。(「熊取の民俗」による)

現在は、疫病防除の神としての信仰の対象としては忘却されつつあるはずだ。しかし今でも地域の人によって掃き清められているのだろう、籠もり堂と祠はいつもきれいだ。

和田の道標地蔵
P2130001マタリンさんから少し山手の大きな桜の木の下にお地蔵さんがある。
「左 みずま 右 なりあい あめやま」と刻まれている。道標地蔵である。
このお地蔵さんにも、花が生けられていた。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年11月 5日 (月)

熊取探訪7~来迎寺

11月3日は文化の日。3日4日は町民文化祭が町内のあちらこちらで実施された。その一つに「重要文化財一般公開」があった。熊取町の重文は①来迎寺本堂②中家住宅③降井家書院の三箇所である。来迎寺(らいごうじ)本堂を紹介する。
来迎寺本堂
Pb030011















草創は詳らかでない。寺伝によれば元は天台宗に属し、後真言宗に移り元禄二年には曹洞宗梅渓寺の末寺となり、円覚山来迎禅寺と称した。
建立は鎌倉時代の終わり頃(1329年)。元は雨山城にあり、南朝の武将橋本正高が武運長久、繁栄安泰の祈願堂とした。
鎌倉時代様式、三間四方(約30㎡)の小堂、屋根-
寄棟造・行基葺、基壇無し、野面石上に柱を建て、三方に濡れ縁がある。
本堂前に向って左の文化財愛護・「重要文化財」の立て札
Pb050018
国宝 旧本堂、日本三建造物後醍醐天皇御行在所、鎌倉初期時代と書かれている。疑問点がある。
町の説明書には 
国指定重要文化財で国宝とは書いていない。、(国宝も重要文化財の一つだが)それと1334年が「建武の中興」の年で南北朝時代に入る。従って建造された1329年は鎌倉時代末期である。鎌倉初期時代は何を意味するのか?
日本三建造物とは、鎌倉時代の建物で、行基葺を使っている孝恩寺観音堂(釘無堂)(大阪・貝塚市)、元興寺本堂(奈良)それに来迎寺を指す との説明を受けた。後醍醐天皇御行在所の意味は、南北朝の頃後醍醐天皇が紀州粉河寺へ行幸の際に、城主が雨山城にお迎えし、宿舎にしたためである。
この立て札は消火設備を納入した日立が設置したのだろう。重要文化財の側でよく見かける。書かれている内容は信頼性に欠ける。

散歩の途中に外からは見ているが、本堂の中に入るのは初めてだ。

本尊阿弥陀如来坐像          天井四隅の梁はエビ虹梁という珍しい建築Pb030003
Pb030004











行基葺について調べてみた。本瓦葺とどう違うのか?
2007015121_2 2007015111_32007015101       


本瓦葺      行基葺

左の三列が本瓦葺  右の三列が行基葺

正門と鐘楼             境内の直ぐ横にある愛宕山参詣記念の祠?                                                     手前の常夜燈に「文久」の字が読める         Pb050023Pb030012








その隣には、何かの祠(常夜燈に「天保」の字)やお地蔵さんがある          
Pb030013 Pb030014








(写真はクリックで拡大します)

| | コメント (6) | トラックバック (0)